夷川(ゑびすがわ)通りは京都市の東西の通りである。

『♪丸竹夷二押御池(まるたけゑびすにおしおいけ)、姉三六角蛸錦(あねさんろっかくたこにしき)、♪……』
と京の東西の通りの数え歌に丸太町通りから南へ数えて行く歌がある。
この歌の2本目の通りが夷川通りである。

この夷川通りは、現在は東は鴨川の西岸から西は堀川通まで通っているが、かつては鴨川の東にもあった。
現在でも琵琶湖疏水開発により設けられた夷川の船溜、夷川発電所など、その名が残っている。
鴨川には、かつては夷川通りを繋ぐ橋が架かっていたが、昭和10年の大洪水で流されてしまったので、以来夷川通りは、鴨川から西の部分となっている。

この夷川通りは平安京の冷泉小路(れいぜいこうじ)にあたり、和歌で知られる公家・冷泉家は、この通り沿いにあった。

蛇足であるが、鴨川の東の部分は冷泉通り(れいせんどおり)と云う。
れいぜい、れいせんと間違えやすいので注意を要する。

前置きはこれくらいにして、夷川通りを東から西へ歩いて見ることにしよう。
スタートは鴨川河畔である。

左側に建築中の工事現場を見ながら進んでいく。
右側は京都市立銅駝(どうだ)美術工芸高校があり、若き美術家を育んでいる。
この学校の前身は、日本で最初に創立された画学校である。

「銅駝」という名前は馴染みにくい名前であるが、平安時代からのこの地区の名称であり、古代中国の都、漢の洛陽に由来していると云われる。
洛陽から西域への起点に駱駝の銅像があったので、平安京でも二条より北の中御門あたりの左右両京の坊名を「銅駝坊」名付けていて、その名が残っているのである。

明治の始めに、この学校の場所に舎密局(せいみきょく、理化学の研究所)が設置された。
今も学校の正門付近にその由来が書かれた看板がある。
「舎密」とは、オランダ語のchemie(化学)に対する当て字である。
そのころの科学技術の開発は、化学が重要視されていたと云うことを示していると思われる。
またこの付近には、維新の旧跡や公家下屋敷の旧地や藩邸跡なども残っている。
更に、島津源蔵による島津製作所、前田又吉による京都ホテル、そして明治の中ごろには市役所も設置され、この界隈はは明治近代化の基地でもあった。

銅駝を後に西へ進む、河原町通りを横切り、寺町通りへ出たところは、西国三十三ヶ所「革堂行願寺」の少し南側である。
夷川通りはここで、段違いになっている。
しかし迷うことはない。
寺町通りから西の夷川通りは「家具の街 夷川」となり、大きな看板もある。

しかし、入口付近にはあまり家具店は見られない。
普通の民家が多い。
麩屋町通りを横切ったあたりから、家具店が多くなってくる。

夷川の家具店は、さほどの大型店舗を構えた店は多くない。
通例、家具店は商品が大きいので大型の展示場が必要であるが、夷川の家具屋さんは、旧町屋の中に商品を並べている小規模な店舗が多い。
それゆえ扱う商品のジャンルは、店によって専門化しているようである。

机の専門店「SI店」があった。
町屋を3つ4つ繋げた間口の広い店である。そこでは、それこそ旧式のちゃぶ台から最新のテーブルまで、家具の歴史を垣間見ることができる。

暫く行くと、旧町屋よりも鉄筋ビルが目立つようになる。
家具店の数は少なくはなるが、やはり家具の町である。
もちろん、ビルを構えた大型の家具商も出てくる。
この家具の街には、表具店や建具店もある。
他に結納の店、金物店、食料品店など、通常の商店街にあるような店もある。

この商店街の少し北、京都市こどもみらい館の北側のグラウンド辺りに、夷川という川が江戸時代にはあったそうである。
それがこの夷川通りの名の起こりとなっているらしい。

道の両側は、旧町屋とビルが互いに並んでいる京都の普通の通りの風景である。。

商店街の西の出口は烏丸(からすま)通りとなる。
京都新聞本社がこの商店街の出口の直ぐ北にある。

烏丸通りを渡って更に西に進む。
暫くは旧町屋が多くなる。
食事処の店も出てくる。
しかし、先ほどの家具に特化された道ではなく、民家と商店が混ざった状態が続く。
最近の傾向として、どの道でもコインパーキングが目立つようになっているが、ここも同じである。

間もなく道の先が開けてくる。
広い場所に出たかと思えば、堀川に架かる夷川橋を渡り、堀川通りに出て行き止まりとなった。

堀川通りの先の堀と石垣、木立は元離宮二条城である。
そういえば先の探歩、「猪熊通り」でも北から歩いて来て、同じように二条城に突き当たって、行き止まりとなったことを思い出した。

二条城と云うのは歴史的にいくつかあるのでややこしいが、ここにあるのは徳川幕府が建立した二条城である。

二条城のその「いくつか」を振り返ってみると…。

室町13代将軍義輝が室町に自らの屋敷を改造して造ったのが最初の二条城である。

その次は、織田信長が室町将軍・足利義昭の居城として、義輝の二条城を拡張して築城した二条城である。
敷地を二重の堀で囲み、三重の「天主」を備える城郭構造であった。
義昭将軍が、武田信玄の上洛の動きに呼応して、信長に反旗を翻してからは、この二条城は信長軍に滅ぼされることになる。

そして二条城に残った天主や門はその後解体され、安土へ運ばれた。
それらはその時に築城中であった安土城に転用されたと云われている。
この二条城の跡は御所の直ぐ西、現在の平安女学院の敷地となっている。
夷川通りから見ると、北の丸太町通りの更に北側にある。

そして3番目の二条城は、信長が京に滞在中の宿所として整備し、後に皇太子に献上した邸「二条新御所」である。
当時は信長は妙覚寺に宿泊するのが常であった。
その寺の隣に公家の二条家の邸宅の庭があって、「洛中洛外図屏風」に描かれるほどの名邸であった。
そのころ二条晴良(子の妻は信長の養女)は新邸に移って空き家となっていたので、信長はこの二条邸を譲り受けて改修し、「二条御新造」として居宅としたのである。
信長はこの邸に2年ほど住み、これを時の皇太子誠仁親王に譲ったのであった。

しかし、信長の本能寺事件の時に妙覚寺にいた信長の子・信忠は、この二条城の方が安全であると云うことで移ったが、防戦する暇も与えられず、止むなく命を落とすことになったところである。

この二条新御所は二条殿とも云われる。
現在の地で云うと、烏丸御池上ル西側の京都国際漫画ミュージアム(旧龍池小学校)の場所にある。
夷川通りから道3本を挟んだ南である。
信長が襲われた本能寺の東北東であり、走れば10分も無い位の距離である。

最後は現在の二条城である。
徳川家康が京に滞在中の宿所として造ったもので、現在も二条城と云われている。
世界遺産の観光名所である。

家康は、朝廷のお膝元京都で幕府の政務を有効に行うこと、そして天皇の行幸を迎えるなど、天皇家や公家とも親しく付き合える場所として平安京の大内裏の跡に建てたものである。
平安京当時は、この場所は大内裏の南端であり、ここから禁園神泉苑とが繋がっていた場所である。
それを裏付けるべく地下鉄建設の時の発掘調査で、貴族達が遊んだと思われる船の遺構も出土されている。

しかし、本音を云うと、徳川幕府は諸大名や財を成した商人が天皇と付き合うのを極端に嫌った。
そのための監視の役割が、直ぐ北にある京都所司代と合わせて、最も大きかったと考えられる。

夷川通りの探歩、江戸の時代に突き当たってしまい、そこで終了となったのであった。

〔完〕