古代の大和には、奈良盆地を南北に貫く5つの街道があった。
東の山際から「山の辺の道」「上ッ道」「中ッ道」「下ッ道」それに「筋違道」である。
これらの道は南下して、大和三山のあたりを東西に貫く横大路を終点とする。
横大路は、西は竹内街道を経て大坂住吉に至り、東は初瀬の街道・伊勢街道に繋がる。

これら5街道の中でも山際を縫うように進む山の辺の道は最も古い街道であり、我が国の最初の道らしき道と云える。

山の辺の道はもう何度も歩いているので、今回はポイントを集中的に探索することにする。

山の辺の道、天理駅から天理教関係の方々の黒い法被を見ながら、天理教本部を過ぎ、ずっと東の布留山(ふるやま)の麓に鎮座する石上神宮まで行き、ここを出発点とする。
石上神宮は日本でも最も古い神社の一つと云われている。
我が国最初の武門と云われる物部氏の総氏神として創建され、信仰された。

平安時代には白河天皇が特に崇敬したと云う。
この神社の国宝の拝殿は、天皇が宮中の神嘉殿(しんかでん)を寄進されたものであると云われている。

しかしその後は、北部の奈良公園にある興福寺の荘園拡大策と衝突をし、神社近辺の氏人達と抗争が絶えなかったと云う。

戦国時代には、信長軍の乱入により神社は破却された。
そして1千石もあったと云う神領は没収され、衰弱して行ったのであった。

しかし神社は破壊されても、土地の人々の強い信仰に支えられてきた。
そして明治になって復活を遂げ、現在の姿になったと云われている。

確かに最古の神社らしく、そして鬱蒼とした森も相まって、神々しい雰囲気ではある。

石上神宮を後に、山の辺の道を南へと進む。
途中、南北朝時代に村人達が自衛のために造った堀に囲まれた竹之内環濠集落を通過する。
さらに進むと、萱生(かよう)環濠集落を通過して、小さな古墳がそこここにあるところへと入って行く。
ここらあたりから、古代の大和朝廷の国の跡であろうとの雰囲気である。

途中には万葉集の歌を書いた石碑もあり、否が応でも雰囲気を盛り上げてくれる。
暫く行くと、長岳寺と云う寺に到着する。

長岳寺は弘法大師が淳和天皇の勅願により大和(おおやまと)神社の神宮寺として創建した真言宗の寺院である。
寺域はかなり広かったと思われるが、今は本堂の辺りが集中的に残っている。
聞いてみるとかつては48もの塔頭があり、学徒も300余人いたと云う。

この寺も焼かれている。
応仁の乱や戦国時代の兵乱などの不幸である。
その後、徳川家康の庇護により復興することが出来たと云われる。

その後も、明治の廃仏毀釈により廃絶の危機があった。
しかし民衆に深く根ざしていた大師信仰によって寺は存続することが出来、現在も存在している。通称は釜ノ口大師と呼ばれている。

この寺には、国の重要文化財である楼門、庫裏があり、平安末期の姿を伝えてくれている。
食堂では特製のそうめんも食べさせてくれると云うことであったが、昼時では無かったので、残念ながらのパスとなった。

長岳寺を後にして、更に南に進む。
大きな古墳が見えてくる。
先ず崇神天皇陵、次に景行天皇陵である。形の良い前方後円墳である。
初期の大和朝廷の天皇の墓と云われている。

この辺りの西方一帯は、大小の古墳が点在する広い地域である。
巻向の古墳群と云う。
近年では大和国(邪馬台国)の最有力場所とされている。

ついでのことであるので、卑弥呼の墓として有力な箸墓(はしはか)古墳を見てみよう。
この古墳は伝承では、倭迹迹日百襲媛(やまとととひももそひめ)という巫女的な性格を持つ王族の墓とされて来ている。
卑弥呼の墓ではないかと云われる所以である。
しかしながら、宮内庁管轄で、陵墓参考地とされていて、学術調査は出来ない。
卑弥呼は永遠の謎として残るのではなかろうか…? と云うのも、かつて「魏志倭人伝」の解釈をめぐって、邪馬台国の位置が九州か畿内かで大論争があった。

この論争に決着が着いたのかどうかは知らないが、我々も、呑みながら素人ならではのいい加減な大論争をした記憶がある。

状況的には、文化の集約地である奈良を邪馬台国とする方が筋が通っている。
しかし、福岡の志賀島で金印が発見されたものだから、九州説が有力となった。

福岡南部とか霧島だとか想定地が言われた。
「魏志倭人伝」には邪馬台国へ至るルートが書かれてある。
距離と方向である。
正確に辿っていくと九州のどこかになるらしい。

しかし、畿内だ九州だと云っても素人には良くわからない。
これはという証拠が出てくれば、はっきりするのだろうと思うが…。

畏れ多いことではあるが、箸墓古墳の内部の学術調査ができれば、新たな進展があるのかも知れない。
そして箸墓古墳から金印でも発見されれば、歴史はガラッと変わると思われる。
そういう楽しみもある場所である。

随分寄り道をした。山の辺の道に戻ろう。
直ぐに三輪山を御神体とする大神(おおみわ)神社に到着する。

大神神社は大和国の一ノ宮である。
大物主大神(おおものぬしのおおかみ)を主神とする。
日本書記に記されていることから「日本最古の神社」と称されている。
さきほどの石上神宮も最古であった。
どちらにしても、日本国内で最も古い神社のうちの一つであろうと思っていいのであろう。

この大神神社は、背後にある三輪山そのものをご神体としている。本殿は無い。
拝殿奥には、珍しい三ツ鳥居がある。
希望して拝殿横から拝観させていただいた。
明神鳥居を3つ組み合わせた形になっている。
何とも言えないほど神秘的であった。

大神神社の境内は広い。他にもたくさんの神を祀っている。
神事に訪れる人も多く、それに観光客も加えて賑やかな所であった。

神社を後にして、そろそろ終盤である。

山の辺の道を辿り、三輪まで来たら最後は「素麺」であろう…。
山の辺の道には、この素麺が最も似つかわしいと思っている。

伝承によると、三輪の素麺は平安時代の後期に、大神神社宮司の次男が三輪の里の風土と三輪山から流れ出る清流が小麦の栽培に合うとの見識で、小麦の種を蒔かせ、小麦粉を原料に三輪素麺を製造したのが始まりと云われている。

もちろん奈良時代から、素麺の原型となる「索餅(さくへい)」というものがこの地域でも保存食として食べられてはいた。
それを三輪産の小麦で作ったのである。

素麺はその後である。
鎌倉時代になって、中国へ渡り帰国した禅僧たちが新しい技術を持ち込んだ。
それは挽き臼により小麦粉をより細かくすること、油により麺を延ばすことであった。
それらの技術により極細の素麺が出来るようになった。
以後、多くの人に親しまれ、そして全国に広がったと云われている。

三輪そうめんを味わいながら暫し休憩。
天理から約12km、もうすぐ終点の桜井である。

桜井から左方向に行けば、長谷寺に向かう初瀬街道、更にその先は伊勢に向かう伊勢街道である。
江戸期以降、多くの人たちで賑わったところであろう。

桜井から更に南下すれば、談談(たんだん)神社を経由して石舞台・飛鳥に至る。

右、西方向に行けば、最終は大阪住吉大社、住之江の港に至る。
古代・中世には、ここから中国大陸に向けて、多くの人たちが旅立ったところである。

山の辺の道の終点は、文明、文化の出発点でもある。

〔完〕