目抜き通りとは、その町の中心街、人の目を引き付け最も賑やかな通りを云うのであるが、その名前の源はどうなんだろうか?

生き馬の目を抜くが如く、賑やかで喧騒であると云うところから来ている説。
武士が腰に差す刀が柄から抜けないようにする留め具「目貫(めぬき)」が、刀の中心にあって、目立つ大事なものであると云うことから転じたという説。
目が抜けるほど開けた見通しの良いところと云う説。
様々なものがあるが、どれも当を得ているように思われる。

その由来は由来として、多くの人が集まるその町の繁華街であるのは間違いない。
京阪奈の目抜き通りを順に探歩してみることにする。

まずは京都…。

京の目抜き通りは四条通りであろう。
東の祇園八坂神社前から烏丸通りの西、室町の交差点ぐらいまでであろうか。
確かに多くの観光客、買い物客、そしてバスやタクシー・自家用車がが多く集まり、いつも混雑、賑やかである。

この四条通りを東から西へ歩いて見る。
八坂神社の階段を降り、信号を渡って四条通りへと入る。
道の両側は色んなお店やホテルが並んでいる。
歩道を覆う庇は祇園祭りの鉾の屋根をアレンジしたようなものである。
土産物、食事処、京都の工芸品などの店が沢山あり、活気がある。

暫く行くと薄い朱塗りの壁を配したお茶屋「一力亭」が左手に見えてくる。
御存じ忠臣蔵の大石内蔵助が仇討の企てを誤魔化すために遊んだと云われている茶屋である。
また、新撰組の近藤勇や薩摩の大久保利通、西郷隆盛も通ったという話もある。
この一力亭の前の通りが花見小路、南へ下ると都をどりで知られる甲部の歌舞練場、更に下ると臨済宗建仁寺に至る。
北に上がると、祇園新橋界隈、柳の風情の昔の面影を残しているところである。

寄り道はせずに、四条通りを西へと進む。

暫く行くと、左手に「めやみ地蔵尊仲源寺」と石柱に書かれた寺がある。
小さな寺門である。
あまり知られている寺ではない。
由緒を調べてみると、直ぐ西にある鴨川に関係があるらしい。

かつての鴨川は、
あの権勢を誇った白河法皇でさえ、
「朕の思いのままにならないもの、それは賀茂川の水、
双六のサイコロ、そして比叡山の山法師(僧兵)」
と嘆いたという逸話がある如く、大変な暴れ川であって、平安京も何度も何度も水害にあったと云われている。

それもその筈である、京の町は南北10kmあるかないかの細長い町であるが、その南北の高低差は100mもある。
鴨川は、北山の奥から雨水を集め、上賀茂神社のあたりの市街地になった所から、一気に100mも下り降りて来るので、当然と言えば当然である。

当時は、川幅は極めて広かった。
現在の繁華街、河原町通りは、その名の通り、鴨川の河原であった。
川の東岸はどれくらいあったか分からないが、人家は無く、寺社があったのみで、ただっ広かったようである

しかし、そんなに広くても、洪水は起こる。
一度、洪水が起きれば、家は流される、疫病が流行る。
法皇のみならず京の町人にとっては大変な恐怖であったに違いない。

京の人々は、当時の五条の中州に陰陽師安倍晴明が建てた法城寺(文字を分解すると、水が去る、土が成る)をパワースポットとして信仰して、洪水からの解き放ちを祈願していたと云う。

鎌倉時代初期のころ、猛烈な台風の降雨で鴨川が氾濫し、朝廷から洪水対策を担当する防鴨河使(ぼうかし)に任じられていた勢多判官・中原為兼(せたのはんがん・なかはらためかね)が、四条河原に祀られていた地蔵尊に、お告げによって止雨を祈願したところ、雨が止み洪水も治まったと云う。

そこで、この霊験あらたかな地蔵尊をお祀りし、中原為兼の名字に人と水を添えて、「仲源寺」とした寺が建立された。
通称「雨止(あめやみ)地蔵」として後堀河天皇の勅願寺となり、町衆の信仰も集めたのであった。

また、「雨止み」という名前の由来は、東の八坂神社への参詣者等がにわか雨に遭った時、近くに家々も無く田畑の中にこの仲源寺だけが建っていたことから、寺で雨宿りをして雨の止むのを待つことが多く、いつしか「雨止地蔵」と呼ばれるようになった。

その後の話。
この付近に、この地蔵菩薩を熱心に信仰していた老夫婦があった。
夫が失明した時、夢に地蔵菩薩が現われ、仲源寺の井戸の涌き水で目を洗うようにと告げられ、早速お告げに従うと、たちまちにして目は回復した。
夫婦が地蔵菩薩にお礼参りをすると地蔵の右目が朱色に変色し、涙が流れていたと云う。
地蔵菩薩が自らの右目に眼病を移して、夫婦を苦しみから救ったという伝承から、いつしか「雨止」から「あ」が取れて、眼病に御利益がある地蔵菩薩「目疾地蔵」と呼ばれるようになった。
この目疾地蔵「仲源寺」、小ぶりな寺ながら訪れる人も多く人気の地蔵さんである。

更に西に進む。
左手に歌舞伎の南座を見て鴨川に架かる四条大橋を渡る。
橋を渡ると、歩く人だけでなく、立ち止まっている人も多くなる。
高瀬川を渡って四条河原町の大きな交差点に出る。
祇園祭りの山鉾巡行のハイライト、辻回しが行われるところである。
交差点の西南角には昔からの百貨店TS屋京都店があり、地下は阪急電車の駅となっている。

さらに西に進む。
本屋さんやら銀行・証券会社、ファッションの店など、色んな店が増えてくる。
バス停もあり、多くの人が集まっている。
まさに人の集まるところ、繁華街である。

西に進むと人の数は少し減る。
通り北側には、老舗DM百貨店がある。
ここを過ぎると、銀行、証券などの金融の建物が多くなり、烏丸通りが近づいて来たことを感じる。

烏丸通りを過ぎて暫く行くと室町通りとの交差点となる。
山鉾町のど真ん中である。
祇園さんの宵山には、室町通りの南北も含めて多くの人でごった返すところである。

ここを持って京の目抜き通り四条通の探歩の終点とするが、四条通りはまだまだ西へ、最後は、嵐山に近い松尾大社まで繋がっている。

次は奈良である。
奈良の目抜き通りは、これも東西をつなげる三条通りであろう。

出発は春日大社の参道、一の鳥居、奈良公園の中である。
京都と同じく由緒ある神社が出発点である。
この地点から西へ、JR奈良駅の方向を目指す。

出発してすぐに右手は興福寺の領地、左手は古都奈良らしい古風な旅館街が並ぶ。
道は徐々に下りとなり、暫く行くと右手には少しの高台に興福寺の伽藍、左手には猿沢の池が見えてくる。
興福寺の五重塔が猿沢の池に写る様は奈良の代表的な風景として有名である。

興福寺のルーツを遡ってみる。
遡れば、天智天皇の時代(都は近江にあった)、藤原鎌足夫人が夫の病気平癒を願い、現在の京都市山科区に創建した寺が起源である。

壬申の乱の後、天武天皇の時代になってこの寺を藤原京に移し、そして地名の厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。
その後、平城京遷都の時に、鎌足の子不比等の手によって現在の地に移され、法相宗大本山「興福寺」と名付けられた。
そして、平安時代には春日大社の実権も手中におさめ、大和国を領し、更に鎌倉や室町時代には幕府は大和国に守護を置かず、興福寺がその任に当たった。
徳川時代にも知行2万1千余石と定められ、その支配は続いたのであった。

興福寺が行う「放生会」の放生池として、奈良時代に猿沢の池が造られたのであった。
猿沢の池には七不思議と云われるものがある。
「澄まず」「濁らず」「出ず」「入らず」「蛙はわかず」「藻は生えず」「魚が七分に水三分」と云うものである。

興福寺、猿沢の池を通過して西に向かう。
左手に「もちいどのセンター街」という変わったな名前アーケード街への入口がある。
もちいどのは餅飯殿と書き、ここにも謂れがある。

この商店街の由来書によると、
『今から千百年余り前、東大寺の高僧理源大師が大峰山の行者を困らせる大蛇退治に出 かけることになった。そのお供に名乗り出たのがこの町の箱屋勘兵衛と若者七人衆。たくさんの餅をつき、干飯を作り、大峰山に向かった。
そして、大蛇の被害を受けた人々たちに「餅」や「飯」を配り、無事に大蛇を退治した。その後、理源大師は、この町の若者に「餅飯の殿」の称号を与えその労をねぎらい、以来この町を「餅飯殿」と呼ぶようになったのである』

この箱屋勘兵衛の現在の店「箱屋本店」は、センター街を少し入ったところにある。 奈良漬・酒がす・甘酒の他に「笹餅飯」を販売している。
笹餅飯は民話を元に、黒米と餅米を三角おにぎり状に笹の葉で巻いて蒸しあげたもので、このもちいどのの歴史を伝えている。

もちいどのを左に見て、今度は右手に「東向(ひがしむき)商店街」というこれも変わった名前の商店街の入り口がある。
東向き通りとは、平城京の興福寺と町との境界の道で、道の東側は興福寺の伽藍が建ち並んでいて人家は建てられなかった。
道の西側だけにのみ人家があり、人家は皆、東を向いているので東向町という町名がここから生まれたと云われている。
その後興福寺の勢力が衰え、道の東側にも住宅がたちならぶようになり現在の商店街となったものである。
この商店街の入り口には、地方銀行NT銀行の本店もある。
この東向商店街の北の入口は奈良県庁前を通る登大路にあり、近鉄の奈良駅から直ぐに繋がる商店街である。
今では奈良随一の商店街となっている。

更に西へ進む。
虫籠窓の旧町屋の商店があり、銀行のビルがあり、旅館ホテルもある。
多彩である。
道路は車道歩道ともタイルでカラー舗装されていて快適である。
小西さくら通りと交差する。
その先、車道であるやすらぎの道と交差する。
この道を北へ行けば、奈良市の運動公園、廃園となったドリームランドを通り、奈良坂と交差して京都府に至る。

やすらぎの道を過ぎると商店は少なくなり、民家と半々ぐらいになる。
更に歩を進めると、またまた商店が大部分を占めてくる。
JR奈良駅が近づいている証拠である。

奈良駅前に出て古式豊かな駅舎を拝見し、奈良の目抜き通りのミニ旅は終了となった。
次は大阪の目抜き通りであるが、上手い具合にこの次が「み」の順番であるので、そちらへ続けることとする。

〔完〕