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1582年6月21日、堺見物を終え家康は京都への帰路途中であった。
生駒山の麓、四条畷辺りに差し掛かった頃、本能寺にて信長襲撃され自害との報を受けとった。

供の者、約50名だけの身軽な小旅行途中ゆえ、なんともならず一旦、信長の後追い自害と忠誠心を見せた密使を放った後、三河目指して一目散に帰ることにした。

さて、ルートをどうするか?
いつなんどき光秀の手の者や、家康の首級を挙げ、それを手柄に天下にのし上がろうとする大小武将の手合いが襲うかも知れない。
服部半蔵に手招きをして
「伊賀…」
半蔵は
「御意」とだけ言って、傍らの馬に飛び乗り駆け出した。

生駒山の辺りから伊賀まで、現在は車で一時間。
当時も同じ2時間もあれば道中に伊賀者の配備は可能と踏んだのであった。

家康一行は津田の人家の間を抜けて、生駒の山裾で方向を東へ穂谷川に沿った信楽街道へ踏み込んだのであった。

今にも雨が降りそうな梅雨空に、黙々と粛々と進んだのであった。
途中、尊延寺集落の来雲寺にて湯茶が振舞われホット一息。
雨がポツリポツリと寺紫陽花を濡らすのであった。

家康、ここで気懸かりは、武田の遺臣穴山信君(梅雪)、信長の押さえがなくなった今、どう転ぶか分からない。
「梅雪翁に頼みがある。貴殿は武田の重鎮。山野の戦いには慣れておる。先鋒を引き受けてくれんかのう?」

家康から大役を仰せつかり梅雪は意気揚々、しかし信君の手勢は10名ばかり、多少の不安もあったが、ここは徳川家を守るためと、決断した信君は手勢をまとめ豊富な路銀も分掌して、田辺の普賢寺に向け先に出発したのであった。

「ワシらも行こうかのゥ~」
家康本隊、信君の道とは違う北に向いて甘南備山の麓を目指したのであったが、信君は、知る由もなかった。

雨はいよいよ本降りに、忠勝(本多)は何故かそわそわしている。
その他の者は臨戦の構えで寡黙になって山道を歩いたのであった。

この時代、川を越えるという大仕事が待っている。
伊賀越え道はどこを通っても、木津川畔の草内の渡しで舟に頼らなければいけない。
2手に分かれた家康一行は、それぞれこのポイントを目指したのであった。

甘南備山も無事通り抜け、酬恩庵(一休寺)に無事到着した。

「ほう、一休禅師の隠居所か? かのご仁の智慧には預かりたいもんじゃ」
禅師の墓所に手を合わせ、禅師が友とした庭を一行が眺めている時、
「本多様…」
と寺小姓の声がした。

本多があたふたと…。
そしてすぐ帰ってきて、家康の耳元で
「・・・」
家康は「ふん・・」と一言。

皆に向かって、「渡し舟も、動き始めたようじゃ・・」
「さあ、雨もあがったようじゃ。行こうかの・・」
一行は、もう一度禅師の墓所に手を合わせ、木津川べり向け、今度は、
勢い良く、動き始めたのであった。

木津川土手が見える所まで来たが何やら騒がしい。

家康は小姓2人に手招きし、
「何か祭りでもあるのか? 見て参れ!」
と言い放って、渡し目指し進んだ。

小姓が帰って来て、言うことには、
「鷹狩りに来ていた武将が百姓の一揆で殺された、と言っており候。地元の百姓では無く、山賊の化身かとも言っており候」
「そうか、それは気の毒に…。きっと名のある武将じゃな」
と、金子を取り出し、
「通りがかったのも何かの縁じゃ。手厚く葬ってやりなさい。とはっきり言って、これを手渡してくれ」
と…。

村人たちが一年位、何もせずに暮らしていける位の金子を手渡したのであった。

後日譚ではあるが、村人たちはその一行の亡きがらを村の墓地の中心に手厚く葬ったのであった。

数日して、墓標が届けられた。何やら書いてあった。
偉い武将のような名であった。

木津川草内の渡しといっても、当時は小舟が一艘と多少の人夫がいるのみである。
荷駄と人を渡し終えるのには、相当な時間が掛かる。

助け舟とはよく言ったもので、この先の宇治田原の山口城から屈強な男衆が、川べりで待っていてくれた。

百姓風で
「すわっ、一揆か?」 と一瞬ひるんだ。
隠し持っていた山口家の旗を立てたこの家紋、家康は知らなかったが、酒井は知っていた。 さすがである。
もう説明する必要もない。
半蔵が城主山口秀康に掛け合っての手配である。

流石に渡しは早い、小半時もすれば全て完了した。

山口城目指して一行は案内された。

途中の城陽の山道で細い川の向こうで、ガサゴソ音が、そして声らしきものがする。
知らん顔して通り過ぎようとしたが、突如一行の前に黒い影が…。

家臣は流石である。
影が早いか、隠し持っている刀に手を掛けるのが速いか?
一瞬で臨戦体制が整った。

なんと道の真中の黒い影、この辺りの山猿の偵察隊であった。
サルは一行を一瞥しただけで、元の藪の中へ消えた。

「サルはのう…。 大事にしなければのう…」

藪の向こうに薄明かりが見えていた。郷の口、山口城下である。

一方、家康一行を迎える山口城、台所はてんてこ舞い。
城主秀康は悩んでいた。
ご馳走は出したいが、戦時中ゆえ、一括されることは分かっている。

知恵が働く秀康、白米入りの麦飯は用意した。
後は体力回復のうなぎである。
宇治川特産の川鰻である。
「当地特産の煎餅とでもしておくか? デザートに…」

さて家康一行、城内で握り飯の接待を受けることになった。
秀康「戦時中ゆえ、粗末なモノばかりで…」
家康「かたじけないのう…。気まぐれ旅で迷惑かけるのう…」

「当地特産の煎餅でございます。お立ちより記念に、ご賞味を!」
と、一同に…。
「これが、煎餅か、いつも食しておるのか? 美味いのう…」
「…。 たまりたっぷりでございまする。千人の兵(センベイ)を食うという謂われがありまして、当地では、戦勝祈願で…」
「そうか、ご馳走になったのう…」

山口城の兵に守られ、宇治田原の山越え道に挑む家康一行であった。

山道は殊のほか険しく、ぬかるんだ
山間の人家の見える場所に寺院があった。
遍照院という名である。

遍照院で湯茶の接待を受け、少しゆっくりした。

「御坊、ここの茶はことのほか美味いのう…。 何か秘訣でもおありか?」
「ご隠居の旅はよっぽどの急ぎ旅だったものと思われまするな。沿道、お茶の畑をご覧になる余裕もなかったようですな…。この辺りは、宇治茶の産地でござる。 山間の茶は養分も豊富で、宇治茶の中の宇治茶でござるよ。新茶に、ご満足いただけたようですな…。ようお参りなされました」

家康一行は、住職に、門前まで送られた。
なんと、山間には、見事な茶畑が…。

「ご坊、世話になった。 商いの途中には又寄らせてもらう。けんごに暮らせよ」

ここまで、なんと余裕のなかったことか、皆で、顔を見合わせ、自然に笑いがこみ上げてきた。
「さあ、参ろうか?」

もう安心とは思うが、これから越えるのは山背と甲賀の境の裏白峠、まだまだ安心できない。

しかしながら家康には全てが読めていた。
山口城を出た辺りから、半蔵の手のものが、守ってくれていることを…。

家来達にばらしてしまうと、こいつらはすぐ気を許してしまう単純なやつばかり…。
まだまだ、気が抜けない。

裏白峠、現在は国道307号線、国道とは言え少し前までは、離合困難な隘路の峠道…。
一気に登り詰め、一気に下り降りた。

そこは、甲賀の国、朝宮の里、なんと、一面の茶畑が…。

「いい眺めじゃのう…」
「茶摘の娘子も、沢山出てるのう…」

梅雨の止み間、いっせいに畑仕事の風景であった。

「ワシの隠居所は、こういう所にするか」
苦境を抜けた喜びから、家康には天国のような光景に見えたことでしょう。

さて伊賀越え、朝宮で半蔵と再会。
前後左右固めて、多羅尾氏の城、小川城まで向かうのであった。

この伊賀越え、小川城以降、伊勢の白子の港まで家康を守りたいという武将が次々に馳せ参じた。
しかし家康の性格を知ってか、それとなく周囲を固めるだけで港に着いた頃にはその数、眼を見張るものになっていたとの話である。

この、苦境の伊賀越えで、家臣の振る舞いをつぶさに見た家康は徳川家の組織体制の大枠を決めたようである。
伊賀越え、長い長い2日間の旅であった。

「山路越え ゆかし香りの お茶の里」

〔へノ段 完〕