神戸市の六甲山にある布引の滝は、日光の華厳の滝、和歌山の那智の滝とともに日本三大神滝とされている。

神戸の街中から僅かの時間で行くことができる。都市隣接の名瀑ということでは国内唯一のものであろうと思われる。

布引の滝に至る布引滝道は、山陽新幹線新神戸駅裏が出発点である。
駅の建物を抜けると、そう広く無い道路が滝への誘導路、住宅街の間を登って行くことになる。

この生田川水系は上流の布引ダムと合わせて、神戸市の上水道として活用され、水道局の手で登山道も整備され、気軽にハイキングすることができる。

登り始めて程なく雌滝に到達する。
更に登って、鼓滝、夫婦滝と過ぎて、雄滝に到着する。高さ19mとそんなに大きくはないが、日本の滝百選にも選ばれている名瀑である。

雄滝を横に見て更に登る。
途中に広場があり展望所となっている。
ここは神戸の街や海が眼下に広がるところである。看板によると、地元の人たちがラジオ体操をしているようでもある。

更に登って行くと、20分程で布引ダムに到達する。
キツイ登りもあるが、ダム湖を見渡す堤防まで登って来ると、そのキツかったことも忘れるほど、その景観に呑まれてしまう。

また、ダム湖から更に登ると、布引ハーブ園にも達する。

布引滝道には、三十六歌仙の歌碑が、所々に置かれている。
在原業平とかがあって、和歌の好きな方なら、順番に楽しむこともできると思うが…。

古い歴史に遡ると、この生田川の谷のあたりから、西の須磨浦方面にかけては、かつての源平合戦の舞台であったと思うと、感慨深い。

古きを偲んでみる。

平安時代の終わりの頃の話である。
後白河法皇は平家追討の命令を源氏諸侯に発した。
いち早く都に駆け付けた源義仲は、平家を追討し、九州まで追い込んだ。

後退した平家ではあったが、いつの日にかの再興を目指し、安徳天皇と三種の神器を奉じていたのでもあった。

都を制した義仲ではあったが、乱暴狼藉の限りを尽くし、また帰り来る平家との戦にも備中で大敗を喫したこともあった。

困った後白河法皇は源頼朝に、今度は義仲追討の命令を発したのであった。

このころ平家はというと、讃岐の国屋島まで、Uターンして来ていたのであった。

源頼朝は、弟である範頼、義経を従え、義仲を討つべく出陣した。
そして、弟らの働きによって、義仲を滅亡させてしまうのであった(宇治川の戦い)。

この頃には、平家は神戸・大輪田の泊(今の兵庫港あたり)に上陸し、清盛が都として建設し始め、義仲にて焼き払われてしまった神戸の福原まで戻っていたのであった。

そして平家は、瀬戸内海を制圧して数万の軍を擁するまでに回復していて、京都奪回作戦を練っていたのである。
1184年の1月のことであった。

平家の帰還を良しとしない後白河法皇は頼朝に三種の神器の奪回を命じるべく、平家追討の詔を出したのであった。

2月になって頼朝は京から追討軍を発した。
範頼は大手軍五万騎、義経は搦め手軍1万騎の出陣であった。

平家軍もそれに呼応する形で、東の生田川口、西の一ノ谷口、山手の夢野口に防御陣を引いて待ち構えたのであった。

しかし後白河法皇は一計を案じていた。
平家軍に宛て偽の休戦命令を発していたのであった。
信じた平家は警戒を緩めたのも事実であったろう。
そこを襲われたと云うのが、この戦いの雌雄を決した所以であろうと思われる。

義経は、搦め手軍を率い、丹波路を進んだ。
山間を迂回しながら進軍する義経軍は、六甲連山、鵯越(ひよどりごえ)で、軍を2分したと云う。
一軍は大半の兵士を連れて夢野口へ、もう一軍は僅か七十騎程度を義経が率い、山間を更に西へ進んだ。

義経の郎党、あの武蔵坊弁慶が道案内人を探した。丁度そこに猟師の若者がいたので、問うた。
「この道は通れるのか?」
「鵯越えは人馬は越えることは出来ぬ」
と若者。
それを聞いた義経は、
「鹿ならば通ることができるのか?」
「冬場に鹿が越えるのを、見たことがある」
と若者。
「鹿が通うなら、馬も通えよう…。案内せい」
と義経はその若者を郎党に加え、強引に進軍したと云う。

難路を乗り越え、義経一行七十騎は平家の一ノ谷陣営の裏手の断崖絶壁の上に出たと云う。

一方、大手軍の範頼隊は東口、生田川の対岸から攻めた。
主力は梶原景時・景季父子、畠山重忠であった。
最初はお互いに矢を射かけていたが、そのうち白兵戦に展開した。
源氏軍は苦戦を強いられたが、景時・景季父子が平家軍の逆茂木を打ち破り、突進し、奮戦を見せたと云う。

尚、余談ではあるが、戦場は生田の森であった。景季はこの生田の森の神社の井戸から神水を汲んで、神に戦勝を祈願したと云われている。
この井戸は、「かがみの井」または「梶原の井」と云われ、現在も境内に祀られている。

他方、義経軍から抜け駆けした熊谷直実、直家親子は平家の忠度が護る塩屋口を狙い戦闘を挑んだが、討ち取られかけた。
そこに味方の土岐実平隊七千騎が現われ、奮戦となり助かったと云う。

義経隊七十騎は、一の谷の裏手の断崖絶壁に到着した。
眼下に平家の陣屋が見え隠れする。
義経はこの崖を駆け下りようとしたが、少したじろいだ。

先ず、馬2頭を落としたと云う。1頭は足を挫いて倒れたが、もう1頭は無事に駆け下りたと云う。
義経は、
「者ども、あれを見たか?心して駆け下りれば、馬を傷付けることはない。さあ、行くぞ…」
と真っ先に駆け下りたという。

2町ほど行くと、更に険しいところに出た。屏風のような岩場であった。
さすがの義経隊も、足を竦ませたが、三浦一族の佐原と云う将、
「三浦では、常日頃、ここより険しい所を駆け下りしてるわ…」
と、真っ先に駆け下りたと云う。
義経らもこれに続いたと云う。

崖を駆け下りた義経隊は平家軍の裏手に突如出現した。
慌てふためいた平家軍、大混乱となった。
その間に、義経隊はあちこちに火を掛けて回った。
平家の兵達は海に向けて逃げたと云う。

大手軍を率い、東の生田口を攻めていた範頼は、この一ノ谷の兵火を合図に総攻撃を命じたと云う。
平家軍は総員、海を目指して逃げ惑った。
平家一族は多くの犠牲を出して、再び屋島を目指したのであった。

逃げる平家を追う源氏軍、熊谷直実は敵を求めて、海岸べりを駆けていた。
丁度波打ち際を駆けていた武将を呼びとめるべく、
「返せ、返せ、勝負所望!」
と叫んだ。

呼びとめられた武将、平敦盛は、退却の時、愛用の横笛の持ち出しを忘れ、取りに帰って船に乗り遅れていた。
この敦盛、清盛の甥で若いながらも笛の名手ではあった。

敦盛は陸に引き返し、直実と馬上組み合った。
しかし歴戦の勇士、直実に簡単に引き落とされ、組み敷かれてしまったのであった。
「熊谷の直実である。貴殿は?」
と、問うた。良く見ると、
まだ年のいかない、薄化粧の少年だった。
「名乗らずとも首を取って、人に尋ねよ。お前にとっては、良い敵であるぞよ…」

憐れに思った直実は逃がそうとしたが、周りには源氏の将がいる。
どうせ討ち取られるならと思い、泣く泣く敦盛を討ちとったと云う。

この直実、武家の無情を悟り、その後、高野山に登って敦盛を供養したと云う。
その後、出家して法然上人に仕えたと云われる。

余談であるが、
織田信長公が好んで演じた、幸若舞『敦盛』がある。
実は、この直実が世を儚んで出家する場面を謡ったものである。

『思へばこの世は常の住み家にあらず
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし
金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる
南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり
人間五十年、下天の内を比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ』

人の世を人間(じんかん)と云い、それは神仏の住む最下層の下天世界の一昼夜にしか当たらない。
短く儚いものであり、夢・幻のようであるとの意と思われる。

織田信長公は、桶狭間の戦い出陣前夜のこと、清洲城で「敦盛」のこの一節を謡い舞い、陣貝を吹かせた上で具足を着け、立ったまま湯漬を食したあと甲冑を着けて出陣したと、『信長公記』に書かれている。

歴史の輪廻の妙であろうか…。

「赤い旗 源氏の武者に 追われまた  西海の果て 沈み行くなり」

〔完〕