さて時は元禄、5代将軍綱吉や水戸黄門の諸国漫遊のころ、大坂では庶民文化が台頭・華やかになりつつあった。

劇場物では歌舞伎や人形浄瑠璃が上演され、庶民の一大娯楽となって来ていた。

ここに竹本義太夫という人物がいる。
大坂のミナミで人形浄瑠璃劇場竹本座を営んでいた。
当時の出し物は軍記物に限られていたため、客の入りも寂しく、経営危機に陥っていた。
軍記物とは義経が戦に勝って拍手喝采、楠公親子の別れで目がしらを熱くする、こんなパターンはもう飽き飽きして、興味も薄れていたのである。

竹本義太夫は語り部である。
脚本家は、かの有名な近松門左衛門ではあったが、話題が古臭いものばかりで、もう劇場をたたむかの瀬戸際であったのである。

そこに大坂の町の北の外れの露天神の森で心中事件が起こった。
北の外れと書いたが、当時はここから北は荒地であった。
大阪駅も梅田駅も曽根崎も、何も無かったのである。

余談であるが、この梅田の地名は「梅田」=「埋め田」という由来、曾根崎の「曾根」は「河川氾濫があった場所」を意味するそうである。

この心中事件があった朝、義太夫は閃いた。
「ひょっとして、新機軸になるかも知れん…」

たまたま大坂に来ていた近松に早速、心の内を打ち明けた。
「そのようなものは書けない」
近松の答えであった。
「男と女の話なんか、日常茶飯事、面白いこともくそも無い」

しかし義太夫は食い下がる。
「門左殿、そりゃそうかも知れん。我が小屋は明日をも知れぬ命。貴殿もとも倒れになるやも知れん。無理を承知でお願い申す…」

少し、その気にはなった近松、
「貴殿とは長いこと一緒にやってきた。上手く当たって、大入り満員の時もあった。だが、近頃はトントだな…。ワシも責任の一端は感じておる。わかった、ご苦労だが、その現場に案内してくれまいか…」

2人で天神の森に出かけたのであった。

天神の森は、もう人もまばらで、平静を取り戻していた。
近くにいた人に義太夫が「どこか?」と訪ねた。
大きな木の根本あたりを指差してくれた。
そこに行ってみると、もう綺麗になっていて、水で洗い流された跡だけが、生々しさを伝えていた。

暫く、じっと見つめていた近松、
「遊郭のあたりへ参ろうか…」
もう先に立って、歩き出した。

天神から少し西に行くと、蜆川(じじみがわ)のほとりに出た。

現在の北新地本通りの付近である。

当時はこのあたり、川は3本あった。
南から土佐堀川、堂島川、蜆川である。
蜆川は明治の時、曽根崎新地の大火の折に廃材捨て場となり、埋め立てられてしまったので今はもう無い。

新地の歓楽街になっている。
桜橋、出入橋、浄正橋などの地名は残しているが…。

さて近松と義太夫、堂島新地の遊郭街に入っていった。
朝まだ早いので静寂である。
西へ西へと歩いた。

天満屋という遊郭が近づいたのか、人だかりがしている。
確かに天満屋である。
近松は大店の旦那衆のような身なりである。
世話好きそうな女を見つけたので、手招きして聞いた。

「お初ちゃんはね、気風のいい、白黒はっきりした女の子だったね。徳兵衛さんみたいな、気弱な男に同情したんだね。一緒に死んであげると言って、出て行ったそうだよ」

言ったというのは嘘である。
そんなこと誰かが聞いていれば止めたはずである。

天満屋から更に西へ、出入り橋まで行った。
そこから北へ…、もう荒地の中である。
油断すれば足が取られる。
遊郭から遠いところを2人で歩いた。

遠くで鐘が鳴っていた。
はっきり聞こえた。
天満橋辺りの鐘であ。
今も釣鐘町には鐘楼はある。

道なき道を苦労して小半時も歩いたころ、天神の森の北側に出た。

「手を取り合って真っ暗な道をね…。暗いから何度もこけたろう。哀れな話だ…」
近松には、もう話のあらましは編みあがっていたのであった。

もう一度、天神の森へ戻った。
何やら沢山の人がいた。
知り合いとも思われないのに、手に手にお花を抱っかえている。

先ほどの大きな木の根本、お花で埋まっていた。

近松は確信した「これはいける」と…。
義太夫も全く同じ思いを持ったのであった。
この二人、顔を見合わせて頷いた。

近松は、その日の内に京に帰った。
10日余りで「曾根崎心中」を書き上げたのであった。

竹本座では、近松の脚本を元に、語り、三味線、人形の製作と、猛練習が始まったのである。
近松も付きっきりであった。

曾根崎心中の初演日を事件の後の一ヶ月後、5月7日と決めたのであった。

物語はこうである。

『内本町の油屋平野屋の手代徳兵衛と、堂島遊郭の遊女お初は恋仲になっていた。

この日、生國魂(いくたま)神社でこの二人、偶然に出会った。
お初はこの頃流行っていた三十三ヶ所参りの客にお供してきていたのであった。

「近頃、とんとご無沙汰だねェ~」
と、徳兵衛をなじるお初。
「実は大変な目にあって、それどころではないんだ…」
客もいるので、その場はそれで別れた。

徳兵衛には店の姪と所帯を持って、新しい店を持たすという話があった。
気の早い店の叔父から、徳兵衛の継母に多額の持参金が渡されていたのであった。

結婚を固辞した徳兵衛は店を首にはなったが、継母から金は取り戻していた。
しかし、どうしても金が要るという連れの九平次に3日限りの約束でその金を貸してしまったのであった。

お初と出会った直後に、生國魂神社に九平次が現れた。

「もう期限も過ぎている。金を返してくれ!」
「何を寝言を言うとるか? 貴様から金など借りてないわい」
「何を言うか ここに証文も持っている ほら~ァ」
「こんなでたらめな紙切れを造りよって…」
「お前のハンコも押してある。間違いない!」
「ハンコは偽造だな?しかし、良く出来ておる。この詐欺師めが…」
と、取り合わないばかりか、詐欺師呼ばわりされる始末であった。

更に食い下がると、殴る蹴るの暴行騒ぎ、引かざるを得なかった。

その夜、お初の遊郭に行った徳兵衛、金も無いのでこっそりと入り込んでいた。
そこへ九平次が現れる。床下に隠れる徳兵衛。

お初に素っ気無くされた九平次、徳兵衛の悪口を散々言って、さっさと帰っていった。

もうだめだと感じた徳兵衛、お初の足に、死に行く決意を表わし、お初もそれに応えたのであった。

いよいよ心中の道行き場面、夜半に遊郭から抜け出した2人、
近松の名調子は、
「この世の名残、夜も名残、死にに行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜、
一足づつに消えて行く、夢の夢こそあはれなれ
あれ数ふれば暁の、七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の、
鐘の響きの聞き納め、
寂滅為楽(仏教で言う、涅槃、さとりの境地)と響くなりー 」

時は六つ午前4時、人目に付かぬように北側を大きく迂回、今の大阪駅の辺りの荒地のぬかるみの中を手を取り合って露天神目指したのであった。

神社の森へ到着した二人は、心中の場面を迎えたのであった。

竹本座の小屋は初日から大入りだった。
何度上演したか、義太夫にも分からない程であった。

この日は、庶民の生きざまを題材にした、庶民のための芸術がスタートした歴史的記念日になったのである。
次の日からは、行列は更に長くなって解消しなかった。

人形浄瑠璃の新機軸は、このときから世話物というジャンルで呼ばれることになった。

もちろん竹本座、公演の収入で借金は楽に返済できた。
その後、大きく飛躍したことは云うまでも無い。
近松も売れっ子作家への階段を上り詰めていったことも同じである。

この人形浄瑠璃、文楽は今も大阪のミナミに国立文楽劇場として、その伝統が受け継がれているのである。

露天神社の名の由来は菅原道真が大宰府に左遷される道中で、当地に立ち寄り、詠んだ歌によるものと言われている。

「露と散る 涙に袖は 朽ちにけり
都のことを 思い出づれば」

しかし道真よりも、朝露にびっしょり濡れながら、死出の旅をしたお初徳兵衛に由来していると云う方が、とても似つかわしい。

この露天神社、大坂の人達はその後、愛着と悲しみ、そして親しみを持って、お初天神と呼ぶようになった。

「大坂の 庶民が集う 神社みち
お初偲びて 昔も今も」

〔つノ段 完〕