竹内(たけのうち)街道、大阪の堺から大阪の南部を東へ辿り、奈良県へ入ったところにある二上山の麓、当麻寺付近まで続いている道である。
二上山から先は、前回訪ねた横大路と繋がっている。

竹内街道は古墳時代と言われる頃から飛鳥の時代まで、我が国の中心的な道路であっ。
最初の官道で、さしずめ国道一号線と呼ぶにふさわしいものであったと思われる。
街道探歩シリーズには、この道を外すわけにはいかない。

竹内の名前は、沿線にある集落の名前から付けられたものである。
また、丹比野という所も通る。以前は丹比道(たじひみち)と呼ばれてもいた。

まず、この竹内街道の歴史を辿ってみる。

大和朝廷の時代は、堺市にある仁徳天皇陵で有名な百舌鳥(もず)古墳群と羽曳野市の古市古墳群の2つの古墳群の中央を繋いで、さらに東へ奈良へと越える道であった。
奈良へ越える手前の山の麓の大阪側にも、この時代の陵墓・古墳など遺跡が数多く残っている。

古代の豪族達はこの道を中心に生活をしていたと思われるが、良くは分からないので、その時代には深くは立ち入らない。

飛鳥の時代になると遣隋使の使節や留学僧が、大阪の港から奈良飛鳥の間をこの道を使って往来した。
その結果、大陸から中国や朝鮮の文化をもたらし飛鳥文化の礎となったことは言うまでもない。

そしてさらに、江戸時代にはお伊勢参りブームにより、伊勢街道の一部として、多くの人々が利用して、賑わいを見せたのであった。

この竹内街道は、堺市内は大阪中央環状線に沿うような形で進む。
堺市より先は、国道166号線となった部分も多くあり、旧道も交えて、奈良に向かって行くのである。
最近では、高速道路「南阪奈道路」も開通して、ますますこの経路の利用が増大している。

この竹内街道を何回かに分割して探索した。

竹内街道の出発点は堺の中心街、南海電鉄路面電車の大小路駅という所である。
和歌山に向か南北の紀州街道と別れて、東に進む道が竹内街道となる。
この辺りには、千利休の旧庵、与謝野晶子邸、それに南宗寺、妙国寺を始め、著名な寺々もある。
堺の名所地域である。

街道は街中の旧道で、生活道路となっていて、かつての面影はあまりない。
ところどころに観光協会が建てたらしい新しい石標柱が見られる。
それと、神社や寺、灯籠がみられる。
江戸時代、旅人はそれを頼りに伊勢に向かったのかと偲ばれる。

風景が変わらない。
どこへ行っても同じである。
この日は仁徳陵と大仙公園を見学して、終わりとした。

別の日に八尾の辺りから太子町の辺りまでを調べた。
飛鳥時代に焦点を絞って、竹内街道沿線の聖徳太子ゆかりの寺を訪問した。

西から、下之太子と云われる「大聖勝軍寺」、中之太子と云われる「野中寺」、上之太子と云われる「叡福寺」である。

まず下之太子「大聖勝軍寺」にまつわる興味ある話を見てみる。

6世紀の半ば、百済の聖明王の使いが当時の欽明天皇に拝謁し、金銅の釈迦如来像や経典、仏具などを献上した。
これが我が国への仏教伝来の始まりであると云われる。

天皇は臣下に問うた。
「これを我が国の国教として礼拝すべきや?」
「これは大陸の優れた文化である故、礼拝すべきでありましょう…」
これは、蘇我氏の蘇我稲目の答えである。

「わが国は古来から神の国でありましょうや…。それをすると、神の怒りを受け、不幸なことになるでしょう…」
これは物部氏の物部尾輿や中臣鎌子の答えであった。

天皇は、
「それでは、個人的に崇拝するぐらいならよかろう」
と、仏像を蘇我稲目に授けたのであった。
稲目は自宅に安置することにし、向原の家を清めて祀り、寺とした云う。
これが日本最初の寺「向原寺」である。

その後、国内で疫病が流行した。物部尾輿は仏教の所為だと批判した。
稲目はその心痛で亡くなった。
尾輿は天皇の許可を得て、その寺を焼き払ったと云う。

仏像だけが燃えなかったため、これを難波の堀江に投げ込んだ。
しかしそれでも疫病は収まらなかったという。

余談であるが、この仏像は信濃の国から難波に来て、この池の前をたまたま通り掛った本田善光(よしみつ)によって発見された。
善光はこれを信濃まで持ち帰り、善光寺の本尊にしたと云われる。
因みにこの池はあみだ池と云われ、和光寺だったと思うが、その寺の境内に今もある。
この仏教崇拝問題は物部氏と蘇我氏が対立する契機になったのである。

そののち、用明天皇が崩御した。
次期の天皇の継承をめぐって、物部氏と蘇我氏の対立は激化した。
穴穂部皇子を立てる物部守屋と額田部皇女(後の推古天皇)を立てる蘇我馬子との対立である。
穴穂部皇子が蘇我氏に殺されたことから、闘いになったのである。

物部氏の本拠地はこの大聖勝軍寺の辺り(今の大阪府八尾市)である。
多くの皇族や豪族達は蘇我氏の方が強かろうと見ていた。
蘇我軍には、後に聖徳太子と云われる廐戸皇子や泊瀬部皇子(後の崇峻天皇)、竹田皇子らの蘇我氏の血を引く皇族に加えて、紀氏、葛城氏,大伴氏、平群氏など、多くの有力豪族も付いたのであった。

物部守屋は子弟と奴(ぬ)の軍隊を率いて戦った。
稲を積んだ砦を築き、この砦から矢を雨のように降らせたと云う。
この攻撃に対し蘇我の軍は、三度も敗退したのであった。

物部軍に追われた聖徳太子が椋の木の下で念じると、大木が二つに割れて、太子の身を隠したと云う。
割れた木の中に聖徳太子の像が見える遺跡もこの寺には残っている。

この後、太子らは信貴山に逃れ、そこで白膠木(ぬるで)で四天王像を彫り、頭髪の中に入れて、リベンジを誓ったと云う。
そして、太子はこの戦に勝ったなら、四天王のために寺塔を建立すると誓い、また馬子も戦勝後の寺院建立を誓ったと云われている。

再び体勢を整えた蘇我軍は守屋の軍勢に猛攻撃を加えた。
この時、守屋は木の上から矢を放っていたが、蘇我軍の兵の放った矢が命中し、守屋は木から落ちた。
すかさず秦河勝(はたのかわかつ)が守屋の首を切り落とした。
そして、その首を池で洗い本陣に持ち帰ったと云われる。

大将を失った物部軍は敗戦、四散したのであった。
寺の外の通りには、守屋の墓も設けられている。

その後、太子は四天王寺を馬子は飛鳥寺を建立したと云われる。

次に「中之太子」である野中寺(やちゅうじ)に向かう。
ここは、嘗ては法隆寺の如き大伽藍であったと云われる。
竹内街道はこの寺の北側を通っている。

伝承では聖徳太子建立の寺院の一つとされ、太子の命を受けた蘇我馬子が開基とされている。
また、この付近は渡来氏族の船氏の本拠地であり、野中寺は船氏の氏寺であったという説もある。

次に上之太子「叡福寺」に向かう。
この寺は、聖徳太子がこの地を自らの廟と決め、47歳の時に墓所を造営したのが起こりである。
翌年、太子の母 である穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后が死去したのでこの墓所に葬った。
そして次の年、太子と妃とが同時期に亡くなったので、この同じ墓に葬られ、そのことにより「三骨一廟」と呼ばれている。

太子の没後、推古天皇が陵墓を守る為に寺を建立した。
その後、奈良時代に聖武天皇の勅願により、東の伽藍を転法輪寺、西の伽藍を叡福寺とする七堂伽藍が整備されたのであった。

また平安時代以後、聖徳太子信仰の霊場となり、空海や親鸞 、日蓮など多くの高僧も訪れたと云われるところである。

この近くに近代的建築物である大阪府立「近つ飛鳥博物館」がある。
この街道や付近の遺跡に関係する多くの物が収集・展示されている。

「近つ飛鳥」という表現はなんだか馴染まないが、太子町のこの辺りは飛鳥と云う町名がある通り、飛鳥である。
一方で奈良の飛鳥を「遠つ飛鳥」と呼び、区別しているようである。

この後、奈良方向に行くには峠を越えることになる。
これは別の日に探索した。
整備された旧道があり、これこそ古代の街道という気分に浸り探索は終了した。

「古代道 面影残る 寺々に  歴史育み 今に残して」

竹内街道、少しばかり荷が重い街道であった。

〔完〕