話は本能寺の変事まで遡る。

専制・横暴なゆえに、都人から不要と烙印を押された信長、これを死にいたらしめたのは誰か?
歴史の大きな謎である。

寺を手当たり次第に焼き尽くした信長、その報いを受けたのか、自らも、焼き焦げる炎の中で、自害せざるを得なかった。
信長は自害する瞬間、
「皆の気持ちは、こうだったのか」
と、思ったかどうか?
信長も人の子、きっとそう思ったに違いない。

「目には目を、歯には歯を」を信長に突き付けたのは?
その犯人となり得る可能性を数えだしたらきりがない。
本願寺、叡山を始めとする系累、浅倉、浅井、松永など多くの武家の遺臣…、信長が邪魔となる公家や武将の手の者…、まだまだいる。
残念ながら今となっては特定できる証拠は何も無い。

信長包囲網は3回目にして、ようやく上手く機能した。
目標達成である。

家康は一旦三河へ帰り、軍をまとめて京都へ向けて引き返して来た。
信長亡き後、自らが都に平穏をもたらすべく、ひと肌脱ぐ予定であった。

そこに伏兵が現れた。
秀吉である。
光秀を主殺しと言いふらし、仇討ちを唱えながら、えらい勢いで京都に乗りこんで来たのである。
KY(ケイワイ)とはまさにこのこと 家康の舞台が横取りされてしまった。
馬鹿馬鹿しくなった家康、もう帰って行った。

今になって考えてみると、秀吉が世の中に出るチャンスは何をおいてもこの時しか無かったのである。
彼は必死の思いで舞台に駆け上った。
これで歴史は変わったのであった。

勅命によって官軍となり、秀吉が音頭を取る賊軍と京の入口山崎で戦わざるを得なかった光秀。
斉藤利三(春日局の父)を先鋒に良く戦ったが、多勢に無勢、敗れて壊走したのは、止むを得なかった。

普通ならばその後、秀吉京都に進軍となるはずであるが、山崎で留まって、都を見守るべく天王山城を築いた。
この作戦は上手かった
一部の者には亀山城や坂本城に行かせたようであるが、やり過ぎると、天皇や禁裏に疎んじられることも良く知っていた。
ただ、「信長を殺めた賊、光秀を秀吉が討ち取った」という噂を広めることには余念がなかった。
まさに、一流の舞台演出である。

さて光秀、
本陣の勝竜寺城に立ち寄り、亀山城を目指したが、途中で思い直した。
「秀吉のことだ、亀山へ来ると見た」
「ここは、一旦、嵐山じゃ」
と大覚寺に向かった。

この大覚寺住職と光秀は懇意にしていて、大覚寺は亀山城の出城のような形で利用させてもらっていた。

光秀と大覚寺の関係を示すものとして、亀山城の遺構が明智門として、大覚寺に移築され、現在も残っている。
また亀山城から一本の水路が、保津川へ繋がっている。
城から嵐山まで、保津川下り宜しく、あっという間に出て来られる。
また亀岡の谷性寺は光秀の信仰篤き寺、大覚寺の末寺である。
大覚寺とはこのような関係であった。

大覚寺は門跡寺院であるが故に、帝や禁裏の情報は早い。
住職は今回のことは良く知っていた。

光秀が来るとは思ってはいなかったが、光秀を見て、
「光秀殿、今回は大変じゃたのう…。しかし、ここは危なかろう? 追っ手が来るやも知れん…。川向こうの藪の中に尼寺がある。そこなら追っ手も来まい。案内するゆえ、直ぐに参られよ」
「和尚かたじけない…。今度も助けてもらったな…」

「光秀殿、貴殿のように立派な御仁には、まだまだ世の中を鎮める働きをして貰わねばならん。これからまだまだ世の中乱れるぞ。拙僧からの頼みじゃ…」
「しかと心得たり…」
と光秀主従、蔵泉寺へ向かったのであった。

蔵泉寺は京都市内を見下ろす松尾の森の中に現在も存在する。
現在は付近一帯は住宅地になっているが、当時は竹藪の中、街道からは見え難い寺だったそうである。

光秀の隠れた生活が始まったのであった。

秀吉のドラマも始まった。
秀吉の人懐っこい演出に、信長の厳しさから開放された武将達は付いて行った。
行かない武将が2人いた。
家康と信長の筆頭家老柴田勝家である。
家康は暫くの間、知らぬ顔の半兵衛を決め込んだ。

柴田はそうは行かない。
この武家の風上に置けぬ秀吉の振る舞いに、はらわた煮えくり返っていたのである。
いちゃもん付けられて、長浜城を落とされた。
北陸決戦を余儀なくされたのである。

秀吉の目が北近江に向いている時に、京都から出ようと考えていた光秀、そのタイミングを計っていた。

一方、信長軍に焼き討ちされた叡山の伽藍再建も始まっていた。
京から多くの宮大工の集団が叡山目指して登って行った。
光秀一行もこれに上手く紛れ込んで、叡山に無事登ったのであった。
蔵泉寺には一冬の世話になったことになった。

この叡山には、信長軍に焼き討ちに遭わなかったお堂が一つだけある。
瑠璃堂という、三間四方の小さなお堂である。
叡山戦争の時、光秀隊はここに陣を置いていた。
撤収の時に焼こうと思っていたが、そのままになっていた。

改めて見ると、叡山の守り堂の如くに光っていた。
光秀は日課のように、このお堂と薬師瑠璃光如来にお参りして、みそぎをした。

別格の修行僧として、叡山に来て5年10年15年と経った。
秀吉が死んだという話も聞いた。
また戦が始まるという、噂も聞いた。

光秀はめきめき頭角をあらわした。
名は「南光坊天海」と付けていた。
明智の明を日と月に分解して、日と月が在るところを天の海とした。
光は南光坊に…、あまり隠していない。

高僧として成長できたのは本人の力はもちろんだが、家康からの口添え、援助も少しはあったからと思われる。

「光秀殿、もう良かろう。 わしを助けてくれ」
関が原の前の年、天海は川越の関東天台総本山「喜多院」住職として山を降りた。
それからの天海の活躍、表には出ないが、目覚しいものがあったことは云うまでも無い。

何しろ、武将・武家のこと、戦のことも良く心得ている。
帝や公家との付き合いは深い。
更に寺社の扱いも上手い。  三拍子揃っている。
徳川軍師として、相談役として、これ以上の人はいなかった。

この徳川初期の、天海が築いていった天皇・公家・幕府の強い関係が、長く続く江戸幕府を支えるこことになったのである。

家康臨終の枕元、
「天海殿、ようよう、ここまできたのう。
わしは先に行くが、のう光秀殿、もう一働き、お頼み申す。
戦のない世界をのう…。
民のしあわせものう…。

貴殿の作戦はいつも見事じゃった。
禁裏、寺、お味方がどんどん増えたゆえ、戦いも楽にできた。
戦いの後もすんなり行った。
なんもかんも、光秀殿のおかげじゃ…

改めて礼を申す…」

「家康殿、そのお言葉もったいない…。
拙僧こそ殿のお蔭で、再びの息吹を頂いた…。
こちらこそ、お礼を申し上げる…。
ご一家、旗本衆も、ご立派になっておられる。
もう、何のご心配もござらん…。

お元気になられた折、ご一緒に茶会でもつかまつりとうござる…」

天海は江戸城の鬼門、上野に、家康の菩提を弔うために寛永寺を建立した。
山号は東叡山、天台宗関東総本山である。

そして、関東一帯を見下ろす日光の地に、家康公を祀る東照宮を建てたのはよく知られている。

その日光の西の鬼門、東照宮を見下ろす高台を明智平と名付け、家康公をお護りしているのである。
明智平の西の方角は、中禅寺湖の遥か遠く、美濃岐阜、近江坂本、丹波亀山へと一直線に繋がっているのである。

「天妙の  教え学ばん  比叡の山
花は散るとも  また咲きにけり」

〔その段 完〕