泉涌寺(せんにゅうじ)道は京都の鴨川の七条大橋の南、並行する疎水に架かる橋の所から始まる。
この場所にはSY化成工業という大手の化学会社の工場があり、その間の道を通って行く。
すぐに京阪本線の踏切に掛かり、それも渡って東進する。
少しの上り坂である。
2、3の商店の前を過ぎると旧道と直交する。
伏見街道である。

この辺りは伏見街道の一ノ橋があったところである。
すぐ南に橋詰堂と云われ、常盤御前の子育て薬師が祀られている寺がある。
交差点の辺りには一橋と書かれた屋号の店もあり、一ノ橋の所在を物語っている。
交差点の東北の広い場所が白いパネルで仕切られている。
新しい小学校「東山泉小学校」の建設現場となっている。
一橋小学校、今熊野小学校、月輪小学校の3校が合併して、この新設校になるとのこと。
ここは一橋小学校のあったところである。
新校名の「…泉」は、おそらく泉涌寺の泉であろう。

その隣は大谷学園、真宗大谷派(東本願寺)経営の学校である。
丁度下校時にあたっているのであろう…。
多くの生徒がワイワイ言いながら通りへ出て来た。

更に東進する。
間もなく信号があって、大きな通りと交差する。
通りは東大路、交差点は泉涌寺道である。

交差点を渡ってなだらかな坂を上って行く。
車の対向に難儀するほど道は狭い。
歩行者は端に追いやられてしまう。

両側は住宅街の中に寺も散見される。
泉涌寺が近づいて来た雰囲気である。
間もなく寺門に到達、「御寺 泉涌寺」と門札が掛かっている。
真言宗泉涌寺派泉涌寺、どうして御寺と云われるのか?
それは皇室との関わりが深いためである。
ここから道は泉涌寺の境内へと入って行く。

左手に塔頭群、右手にも塔頭、それに小学校もある。
左の最初の塔頭は即成院、弓の名手「那須与一」の墓がある寺である。
この寺は元々秀吉の建てた伏見城の用地にあったが、城建設で強制的にここに移動させられたと云う謂れがある。
塔頭群の門前を歩いて行く。
ここから泉涌寺の山門に至るまでの道のりが思いのほか長い。

途中に西国三十三ヶ所の札所、今熊野観音寺に至る分かれ道もある。
僅かではあるが登りの連続である。
やっとのことで山門までたどり着き、泉涌寺道の探歩は終了となった。

泉涌寺を少し探索してみる。
泉涌寺は元々、弘法大師がこの地に草庵を結び、後に「仙遊寺」と名付けたのが起源である。
下って鎌倉時代に開山の月輪大師(がちりんだいし)が大伽藍を造営し、現在の大寺院の姿となった。
その時、寺地の一角から清水が涌き出たことにより、泉涌寺と名を改められた。
この泉は今も枯れることなく涌き続けていると云われている。

当初から、天台・真言・禅・浄土の四宗兼学の道場となり、幾多の学層を輩出している。
また皇室の信仰が篤く、鎌倉中期には、四条天皇の葬儀がこの寺で営まれ、その後も歴代天皇・皇后の葬儀が江戸期最後の孝明天皇に至るまで執り行われ、山稜「月輪陵」が境内に設けられている。
泉涌寺が「御寺(みてら)」と呼ばれる所以になっている。

泉涌寺は清少納言の山荘があったところでも有名である。
その場所は山門を入って右手直ぐにある。
清少納言の父、少納言職の清原元輔がこの場所に山荘を構えていたと云われる。
幼少のころの清少納言(名を諾子という)の自然と触れ合う遊び場でもあった。

この機会に清少納言について触れてみる。
清少納言は一条天皇の中宮の女房として宮仕えをした才媛である。

中宮定子とは関白藤原道隆の娘で17歳の時に一条天皇の中宮となり、清少納言はその女房として後宮に出仕した。
その時、清少納言は28歳だったと云われている。

清少納言は既に16歳の時、橘則光という者と結婚して、一児をもうけたが、やんちゃな(今はDV)則光には手を焼き、10年程も我慢したが、やはり離婚し、それを契機に宮廷に出仕した。

その頃の、初々しい気持ちが、枕草子に書かれている。
~第184段~
『宮に初めて参りたるころ、ものの恥づかしきことの数知らず、涙も落ちぬべければ、
・・・・・・』
宮廷のことが分からず、回りの女房達から馬鹿にされていた様子であった。
しかし中宮は教養高い様子の清少納言を、人のいない夜の間に何時も話し相手としたそうである。

その後、中宮定子の父親、藤原道隆が亡くなり、翌年、兄の伊周と隆家が上皇の輿に矢を射かけたという嫌疑で失脚すると、定子も禁中を退去した。
しかし、定子が第二皇女を出産し、宮中に戻り、兄達も赦免されたが、心労が元で24歳で亡くなってしまった。
この時に清少納言の宮仕えも終わったのであった。
齢35歳であった。

続いて、中宮として彰子が入内した。
云わずと知れた、わが世の春を豪語する藤原道長の娘である。
源氏物語の紫式部が彰子の後宮に出仕したのもこの時であった。

道長は道隆の弟である。
兄道隆一族の失墜を望み、謀殺など一連の事件を仕組んで、見事、娘の彰子を中宮にしたのであった。

その後、彰子は天皇の母ともなったので道長の陰謀は大成功であった。
道長は摂政となって、子供の頼通に繋がる黄金時代を築いて行くのであったが…。
『この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることの なしと思へば』
道長の有名な歌?である。

話を清少納言に戻す。

清少納言と言う名は、宮廷に出仕してから、一条天皇より賜ったと云われている。
清原の清+少納言、女性ではあるが、宮廷で官職の男をやり込めたりして男まさりの印象があったのであろうか?

その機知に富んだ振舞の少納言は、中宮定子から大切にされ、お互いに教養を高め、世の中のことどもを楽しんでいたと云う。

ある雪の降った日の中宮の部屋でのやりとり、
~第280段~
『雪いと高く降りたるを、例ならず御格子まゐらせて、炭櫃に火起して、
物語などして集り侍ふに、「少納言よ、香爐峯の雪はいかならん」
と仰せられければ、御格子あげさせて、御簾高く卷き上げたれば、
笑はせたまふ 人々も「皆さる事は知り、歌などにさへうたへど、
思ひこそよらざりつれ なほこの宮の人には、さるべきなめり」といふ』

唐の詩人、白居易の詩の一節、
『香炉峰の雪は、布団の中から簾を撥ね上げて、手をかざして眺めこむ』
を知った上での機知に富んだやり取り、周囲の女達も、なるほどと頷ずき、絶賛したと云う事であった。
この頃になると女房達からは一目も二目も置かれる存在になったいた。
こんなことで清少納言も鼻高々だったかも知れない。

ある日、中宮の兄の内大臣藤原伊周がやってきて、一条天皇と妹中宮定子に当時は高価であった料紙を献上した時、
「帝の方は『史記』を書写なさったが、こちらは如何に」
という中宮の下問を受けた清少納言が、
「枕にこそは侍らめ」
と言ったところ、中宮は
「さは、得てよ」
と言い、清少納言に紙束を下賜した。
その紙に書き綴ったのが、『枕草子』と言われる所以である。

清少納言が仕えた中宮定子の墓は新幹線のトンネルの少し南の丘陵地にあり、一条天皇皇后定子鳥戸野陵(とりべのみささぎ)と云い、泉涌寺の北隣である。

清少納言は、この定子の眠る御陵を拝しながら、亡父元輔の山荘に住み、藤原公任ら宮廷の旧識や、和泉式部・赤染衛門ら中宮彰子付の女房とも消息を交わしていた。

また一説には、この山荘に隠遁する前には、再婚相手・藤原棟世の任国摂津に下ったとも、阿波に行ったとも云われ、逸話・遺跡も残っている。

父の清原元輔は梨壺の5人の1人、後撰和歌集選者の歌人である。
小倉百人一首にも元輔の歌がある。
『ちぎりきな かたみに袖を しぼりつつ  末の松山 浪こさじとは』

清少納言は、宮廷に上がった時、中宮始め周りの人から、
「元輔さまのお子、歌を詠むのは得意でございましょう?」
と良く聞かれたそうである。
「歌は、父の名を辱めてはいけませんので、詠まないのです」
と云い、歌は詠まなかったそうであるが…。

しかし枕草子に、このような段がある。
~第129段~
『頭弁の職にまゐり給ひて、物語などし給ふに、夜いと更けぬ
・・・・・・
夜を通して昔物語も聞え明さんとせしを、鷄の声に催されてと、いといみじう清げに、裏表に事多く書き給へる、いとめでたし
御返に、「いと夜深く侍りける鷄のこゑは、孟嘗君のにや」ときこえたれば、たちかへり、「孟嘗君の鷄は、函谷関を開きて、三千の客僅にされりといふは、逢阪の関の事なり」
とあれば、

夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも 世に逢阪の関は ゆるさじ

心かしこき関守侍るめりと聞ゆ  立ちかへり、

逢阪は 人こえやすき 関なれば とりも鳴かねど あけてまつとか

とありし文どもを、はじめのは、僧都の君の額をさへつきて取り給ひてき
後々のは御前にて、「さて逢阪の歌はよみへされて、返しもせずなりにたる、いとわろし」と笑はせ給ふ  ……』
とのやり取りがある。
この歌、本人も書いてるように力作だったそうである。
小倉百人一首に収録されているのは、良く御存じの通りである。
この歌の歌碑、清少納言の山荘のあった場所に建てられている。

清少納言は、この枕草子について、次のように書いている。
~第319段~
『この草子、目に見え心に思ふことを、人やは見むとすると思ひて、つれづれなる里居のほどに書き集めたるを、あいなう、人のために便なき言ひ過ぐもしつべきところどころもあれば、よう隠し置きたりと思ひしを、心よりほかにこそ漏りいでにけれ

・・・・・・・・・・・・

左中将、まだ伊勢守と聞こえし時、里におはしたりしに、端のかたなりし畳さしいでしものは、この草子載りていでにけり
惑ひ取り入れしかど、やがて持ておはして、いと久しくありてぞ返りたりし
それよりありきそめたるなめり、とぞほんに』

『この草子には、私の目に見え、心に思うことを、書き付けた。他人にとって具合の悪い言い過ぎをしたにちがいない箇所もあるため、うまく隠していたと思っていたのに、左中将様の目にとまり、心ならずも世間にもれ出てしまった』
というように、枕草子の後書きで、奥床しき様で書いているが、それはこの時代の物事の書き方の常であったろうと思われる。

この枕草子、後の徒然草や方丈記に多大な影響を与えたことは間違いがない。

枕草子の最初の一文、
『春は曙  やうやう白くなりゆく、山ぎわ すこしあかりて、紫だちたる雲の 細くたなびきたる』
この光景に出会いたいと思っているが、まだお目にかかれていないのは、残念である。

こんなことを思いながら、泉涌寺を後にした。

〔完〕