御前通りと云うのは北野天満宮へ至る、京都の南北の通りである。

もう一つ京都市内にあって、東と西の本願寺を結ぶ通りも御前通りと云う。
しかし今回は、平安時代からの通りで、天神さんへ向かう通りを選び探索することにする。

京都の南北の通りは北から下りながら探索するのが楽である。
その理由は京都の地形による。北と南では数十メートルの標高差があるからである。
しかしながら、今回は天満宮への参詣道と云うことで、登りを感じながら南から北へ向かって歩くことにする。

御前通りは十条通りから始まるのであるが、半分の五条通りからのスタートにした。
道は片側2車線で広い道である。歩道もあり、快適に進むことができる。
四条通り近くまで来ると、電車の踏切を渡る。
京福電鉄の嵐山線、通称「嵐電(らんでん)」である。
複線の広軌の線路を一両だけの電車が走って行った。

四条通りを過ぎて更に北上する。
特筆すべき風景はない。街道歩きには物足りない景色である。
古い家屋・新しい家屋、マンション、民家・商店が入り乱れた普通の京の通りの風景が続く。

三条通を過ぎるとセンターラインも歩道もなく、道幅が狭くなる。
そして御池通りを過ぎると、道はまた広くなる。

右側に広いグラウンドがある。
遠くに聳えている西の京中学のグラウンドなのか?市民グラウンドなのか良くは分からない。

暫く行くと、高架になったJR山陰線の下を潜る。
この地点から丸太町通りまでは、車の離合は不可能な道幅である。

丸太町通りから先は道は2車線となる、但し歩道は片側にしかない。
途中、虫籠窓の古い家屋もあり、和ませてくれたりする。

ここらあたりからは、道の両側に寺院が見られるようになる。
一つ一つ訪ねてはいないが、曹洞宗や日蓮宗の大きな境内を持った寺院もあった。
良く知らない宗教の本部もあり、信仰の一角と云える。

暫く行くと一条通りに達する。
交差する一条通りは商店街となっている。
大将軍商店街という案内看板が上がっている。
少し寄り道にはなるが、この商店街を通り、大将軍まで行ってみることにする。

大将軍商店街は百鬼夜行・妖怪ストリートとして知られている。
見たことはないが、イベントもあるそうである。

余談であるが、そういえば一条通り、東の吉田神社の節分鬼退治、廬山寺の節分鬼法楽、一条戻り橋、晴明神社、そして大将軍と、鬼妖怪に関係している。
都の北の外れであったので、鬼・妖怪が行脚していたのであろうか…?

大将軍八(たいしょうぐんはち)神社は商店街を抜けた北側にあった。
大将軍とは陰陽道に云う星神天大将軍で、天文、方位を司る神であり、方除け、厄除けの神様である。
元々は平安建都の時に都城の方除守護神として当初は大将軍堂として造営された と云われる。

このような神であるので、代々の権力者たちも厚遇したと云われる。
江戸時代には大将軍社、そして大将軍八神社と改められ現在に至っているそうである。

この神社には、平安中期から末期にかけて造られた神像百余体が安置されているが、うち80体は重文に指定されているそうである。

本来の御前通りに戻り、北上を続ける。
もう北野天満宮が近い。
左手に「Tや」と云ううどん屋さんを見て今出川通りに出る。
この通りの向こう側に天満宮の鳥居が見えている。
信号を渡り到着となった。

御前通りはまだ続く。
天神さんの塀に沿って上っていく。
天満宮の横、東側に北野踊りで知られる上七軒歌舞練場の入口がある。
東門、裏門に至る道を過ぎて、住宅街を通って行く。
道は上り坂を感じるぐらいの斜度である。

東西の通り「寺の内通り」に突き当たって、御前通りは終点となった。

天満宮まで来たので、道真の話を思い起こして見たい。

「右大臣道真、貴殿を大宰権帥(だざいのごんのそち)に任じる。早々に赴任されよ」
とうとう醍醐天皇から、菅原道真に転勤勅命が下った。

「このことは、宇多院陛下も御承知なりや?」
と道真は口から言葉を出すのが背一杯であった。
実はこの異動、醍醐天皇は宇多上皇には内緒で進めていたのであった。

傍らで控えていた左大臣藤原時平、心の中では、
「これで、藤原の権政が邪魔されずに済んだ。」
と、俯いたままで笑いが止まらなかったのである。

「上皇が御存じであろうが無かろうが、関係はない。右大臣は娘婿、わが弟、斉世(ときよ)親王を皇位につかせようとし、朕をないがしろにした。その罪は本来は死罪であるが、そこを譲って大宰府の勤番とした。大宰権帥、つまり九州総督府の代理長官である。それだけでも有難いと思うが良かろうぞ…。しかと申し渡したぞ」

この背景はこうである。
少し前のこと…、
朝廷の要職の常連、藤原氏にはこの時、政治ができるようなまともな人材がいなかった。
そこで、宇多天皇はこれ幸いに、天皇が直接政治をする親政を目指して、学問、政治何でもこいの学者の家系、道真を重用したのであった。
道真は若くして、官吏登用試験に合格した、何年に一人出るか出ないかの逸材であった。

そして更に、息子を醍醐天皇にし、自らは上皇となり、左大臣には藤原時平を起用した。
藤原氏の起用は、今までの慣習を壊したくなかっただけのことである。
そして、右大臣には道真を起用したのであった。

ここで余談、
この道真の話は、西暦900年の少し前ごろの話である。
この100年前に、桓武天皇は京都に都を移したことは、良く知られている。
その狙いは、奈良の平城京にて、はびこり過ぎた公家(藤原氏)と東大寺や興福寺など、大寺院の影響から逃れるためであった。

そのため、都の造営資金を秦氏を始めとする京都の帰化人豪族達に頼って来たのであった。
しかし、藤原氏は天皇に付いてきてしまった。
もうこの時点では、天皇家と藤原家は姻戚関係で、複雑にからんでいたので、止むを得ないことではあったが…。

道真は、官吏になった頃、菅原家が代々係わって来た遣唐使を廃止した。
当時の唐は「黄巣(こうそう)の乱」で国内が乱れており、日本の国家的事業、遣唐使を派遣する意味がなくなっていることを奏上して、それが受け入れられた
実績も持っていた。

また、道真は朝廷の要職についてからは、朝廷に権限の全てを集中する
中央集権制の構図を作り、天皇の補佐として、親政を目指して来たのであった。

藤原家はここに来て完全に敗北していたのであるが、そこは長く生きてきた名家、生き延びる術は心得ている。
頭脳では勝てないが、策略では負けない。

藤原家は一計を案じた。
それは先ほどの、娘婿を天皇にしようとしていると云う筋書を作って、誠しやかに帝に奏上したのであった。

「物事をわきまえている道真は、そんなことをする筈がない」
と天皇も嘘だと分かっていたが、藤原が言う以上取り上げないと、ことがややこしくなる。
「藤原一族と事を構えることになると面倒なことになるなァ…」
という気持ちの方が優先した。

とにもかくにも、道真は九州に行くことになった。
その時の道真は55歳、西暦901年、1月25日のことであった。
「もう、都には帰って来れないな…」
と云うのが実感であった。
関係ないのに、道真の4人の息子にも、流罪の勅命が出たのであった。
こうしておかないと、何時復讐劇が起こるか分からないのが、理由である。

道真が大切に育てていた自邸の白梅に別れを告げ、歌を詠んだと云う。
『東風吹かば にほひおこせよ梅の花
あるじなしとて 春な忘れそ』
と言い聞かせた。

途中、道真が在原業平らと詩歌管弦を楽しんだ地、長岡の八条池、難波の曽根崎の辺りを通って、難波津から船に乗り、九州の地に向かった。
『露と散る 涙に袖は朽ちにけり
都のことを 想い出づれば』
この歌が、露天神(お初天神)の名の由来になっている。

大宰府では、日常政務を行いながら過ごした。
しかし、その生活は張り合いのないものであったことは、容易に推察できる。
都の話が伝わってくるたびに、都の乱れようが心配となった。
また、流罪となった息子たちのことも頭から離れなかった。

日々、天に祈りをささげる他、心の満足が得られることは無かったと云う。
道真が登って祈りを捧げた山がある、その山は現在、天拝山と名付けられている。

元々、身体が弱い道真、1年たった頃から、寝たり起きたりの状態となった。
回復もおぼつかなくなったころ、道真は側近に遺言をした。
「遺骸は牛に引かせよ、そして牛の行くところにとどめよ。」

道真は903年の2月25日に病没した。
奇しくも、誕生日と同じ2月25日である。
道真は丁度2年間、大宰府にいたことになる。

遺骸は遺言通り、牛に引かせた。
牛は、黙々と東に歩いて、あるところで動かなくなったと云う。
そこを道真公の墓所と定め、小さな祠を建てた。
現在の大宰府天満宮の場所である。

この話は、これで終わらない。

この日、道真の怨霊は、叡山の僧、尊意の所に現れ、「我は、帝釈天の許しを得た 帝や禁裏に復讐する」
と語ったと云う。

その後、都では異変が相次いだと云う。

道真追放の立役者、藤原時平が39歳の若さで死去。右大臣源光も死去。
更に、道真の左遷に反対する宇多上皇の御所入りを邪魔した藤原菅根も変死。
更に更に、時平の妹穏子と醍醐天皇の間に生まれた皇太子保明親王が21歳で死去という風である。

追い討ちを掛けるように、その保明親王と時平の娘との間に生まれた幼い慶頼王も死去。
そして極めつけは、御所清涼殿に落雷があり、大納言藤原清貫をはじめ何人もの
殿上人や女官が雷に撃たれて死亡。
醍醐天皇はそのショックで病に倒れ、数ヵ月後に崩御してしまった。

朝廷も、内裏も、市中の人も皆、
「道真公は雷神になられ、復讐を果たした。」
と、言い合った。

祟りを恐れた朝廷では、道真を右大臣に復し、正二位を贈り、更には正一位を贈り、その名誉回復を図ったのであった。
その背景には道真を讒言した時平の早逝により、その子孫が振るわなかった。

宇多天皇の側近で道真にも好意的だった時平の弟の忠平が藤原氏の嫡流となったとのである。
(賢明な諸氏には、これらの怨念の出来事は、忠平の陰謀、藤原氏の
内部争い?はたまた?と推察されると思うが、これ以上は控える)

清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられた。
火雷天神が祭られていた京都の北野に北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとした。
時の一条天皇より「北野天満宮天神」の称も贈られた。

それから後百年ほどの間、大災害が起きるたびに道真の祟りとして恐れられた。
こうして、天神信仰が全国に広まり、各所に天神社、天満宮が勧請されたのであった。

しかし、年月が経てば災害の記憶も薄れて行き、道真が優れた学者・詩人であったことから、後に天神は学問の神として信仰されるようになり、
現在に至っている。

御前通り、天満宮の辺り以外は道真を感じさせるものはなかった。
1000年も経過すると、通りに名を残すのみで、忘れられてしまうのあろうか?

帰り道には、天満宮を流れる天神川の川面を見つめ、道真の遺徳を暫し偲んだのであった。

〔完〕