いろは順の街道探歩、
最初に伊勢本街道の大阪府内を辿ることにする。

伊勢本街道は、京都から、あるいは大坂から奈良を抜け、三重の伊勢神宮まで至る参宮街道である。
平安時代より、熊野詣が都人を中心として、大変な人気を集めたが、江戸時代になって庶民の時代、「お伊勢参り」=「お蔭参り」が人気となった。
信仰のある人も無い人も、他国へ旅に出ると云う夢みたいなことができるようになったので、チャンスあらば行こうと云う風潮が芽生えたのであった。

その当時、庶民の旅行は厳しかったが、お伊勢参りと云う名目であれば、通行手形が簡単にもらえたと云う。
しかし、先立つものが要る。
その先立つものを工面する目的で、お伊勢講と云う富籤のようなものが行われた。

何人かの組で積立をして、年に一度か二度、伊勢神宮詣ができる人を籤で選んだのであった。
籤と云っても順番付けみたいなもので、毎年メンバーが変わり、順番にお伊勢参りをしたのであった。
それは、お伊勢参りと云うより、諸国・諸事見物と云う、現在の観光の走りのようなものであった。
また、帰って来てから、旅先の新鮮な情報や土産を、皆にひけらかすのも、楽しみ・自慢の一つであった。

ごく最近まで、関西の小学校の修学旅行が、伊勢方面だったのも、その名残であろうか?

大坂人が、伊勢に参る時は、生駒の暗峠越えで、まずは奈良へ向かった。
これぞ大坂からの伊勢本街道である。

出発点は今のJR環状線の玉造駅あたりであった。
駅のすぐそばに、二軒茶屋跡という石碑がある。
この茶屋で道中の無事を願って、行く人送る人が別れの宴を催したと云われる。

余談であるが、この駅の西側には真田山と云う上町台地の丘があり、大坂の陣で活躍した真田幸村の像が奈良・伊勢の方に向いて、「かかれ!」と叫んでいる。
像は近年のものであるが、幸村も旅人を激励していたような気がする。

さて伊勢本街道、昔ながらの商店街や住宅地の間、はたまた広い車道を進んで行く。
歩きながら発見したのであるが、道の上に街道のマークらしきタイルが嵌めこまれている。
説明は何も無いので分からないが、街道の目印であろうか?
所々に道標もある。
また、堺屋太一氏が書いた解説看板もある。
歴史街道として残して行こうと云う、関係者の努力がうかがえる。

街道は今里の北を過ぎ、新深江の地下鉄駅を通る。
深江には稲荷神社があって、「深江菅笠ゆかりの地」とある。
旅人は、ここらあたりで、菅笠始め旅行用品を整えたのであろう。

東大阪市に入り、布施を過ぎ、菱江を過ぎ、花園公園の北を通り、英田(あかだ)、水走(みずはい)と難読地名の集落を過ぎ、河内国一ノ宮枚岡神社あたりに到着し、お参りと一服となる。
そしてここからは生駒山の暗(くらがり)峠(標高455m)を越えて、大和の国・奈良に入る。
かつて、芭蕉がこの峠を越えた時、
「菊の香に くらがり登る 節句かな」
と詠んだと云われる。

この探歩記は街道沿線の詳述が目的ではない。
街道にある何か珍しい発見について書きたいと思っている。

この街道の周辺、河内の界隈は大坂の陣にて豊臣方木村重成が勇敢に戦い、破れたところでもある。
若江の戦いと云われる。
しかし今回は、古いことはさておいて、現代の戦いに付いて触れることにする。

この街道、近鉄花園ラグビー場の北側を通過する。
日本最古のラグビー場、ラグビーの街、花園である。
ファンの方なら良く御存じと思うが、冬休みの全国高校ラグビー大会、社会人や大学ラグビーの大会も行われる。
東京の秩父宮ラグビー場と並ぶラガーメンのメッカである。

イギリス起源のフットボールは、村の祭礼などの時に、一つのボールをめぐり多人数が両軍に分かれ、押し合いへし合いして、相手陣にボールを運んだ方が勝ちの行事であった。

日本でも神社の祭礼の時に、もみ合うような場面が良く見られるが、それと同じようであったと想像する。

このフットボール、その後、イギリスの学校ではスポーツとして、実施されるようになった。
足だけではなく手も使ったと云うが、バスケットボールのようにボールを持つことは禁止であった。

なぜラグビーになったのか?
1823年、英国イングランドのパブリックスクールであるラグビーという名前の学校で、フットボールの試合中にウィリアム・エリス という生徒がボールを抱えたまま相手のゴール目指して走り出したことが起源とされている。

そのことをきっかけとして、サッカーとラグビーに分かれたと云われる。

ラグビーのルールは分かりにくいと云われる方が多いが、そう難しくはない。
ボールはいつも自軍の先頭に無ければならない。
言い換えれば、ボールより前にいる選手はプレーできない。
そして、ボールを前に離す場合は投げてはいけない。 蹴ること。
これだけである。
もちろん反則わざは決められているが…。

余談であるが、サッカーの場合は、比較的自由であるが、前に相手方の選手がいない場合には、ボールの前に選手がいてはいけないとされている。
サッカーもこれだけである。

両方とも間にネットがないので、攻撃のラインはきっちり決められている。
オフサイドラインと呼ばれる。
これがなければ、無茶苦茶なことになる。

日本のラグビーは何時から始まったか?
明治30年過ぎ、慶應大学の田中銀之助と云う人がイギリス人の英語教師エドワード・B・クラークとともに伝えたのが始まりだと云われる。
かつては、ラグビーのことを蹴球(しゅうきゅう)と呼んでいたが、サッカー人気が定着してからは、蹴球とはサッカーを指す様になり、ラグビーは闘球(とうきゅう)と呼ばれるようになったが、今はそう呼ぶ人はいない。

日本のラグビーは慶應、同志社、早稲田、明治などの大学の伝統校が、戦前から定期戦を行い発展して来た。

ラグビーは元々九州で盛んであった。
全国社会人ラグビー大会(現トップリーグ)の最初の頃の優勝チームは九州勢が続いたと云う。
高校ラグビーも西日本の高校が優勢である。
ご当地大阪は、代表が3校も選ばれる。

しかしながら、日本のラグビーは国際的には弱い。
サッカーと同じようにワールドカップがあり、1987年の第1回大会から、第6回大会まで、毎回出場しているものの、勝ち星は予選プールでのジンバブエ戦の1勝しかなく、
決勝トーナメントへの進出はまだ無いのは残念である。

日本選手は体力的に劣ると云う面もあろうが、子供の頃からの訓練、裾野の広がりも大切である。
小さい子供の嗜好は野球やサッカーである今日、止むを得ないかとも思う。

ラグビーのチームは15人であるが、役割により体格、技術が異なる。
フォワードの格闘技部分では、体重があり大きな選手が要る。
またスローインをキャッチするために、背の高いのも要る。
スクラムハーフは、素早く動き、敵に捕まえられないために、背が低くすばしこい選手が要る。
コントロールタワーのスタンドオフは、作戦能力が要る。
バックスは、やはり走力重視である。

様々なバラエティーに富んだ選手で構成され、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」と良く云われる。
そして、試合が終わればノーサイド…、これはどのスポーツも一緒であろう。

街道探訪の途中、花園ラグビー場を見た。
第一グラウンドは閉鎖中であったが、第二、第三グラウンドでは、練習があった。
チーム名は「近鉄ライナーズ」、地元の社会人トップリーグの草分け的チームである。
全国優勝を何度もした歴史のあるチームである。
地元チームであるので、今後、優勝もお願いしたいものである。

そう云えば、京や大坂からの伊勢本街道、現在は近鉄電車に乗って、楽に行けることにはなっている。

しかし、電車では、発見できることは少ない。

「生駒山 伊勢への旅の 喜望坂
諸国のことの 見聞き楽しも」

〔完〕

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